インターネット「ぴゅう太郎」 「いつか何処かで」
10. 三河の手筒

三河は徳川家康の故郷です。
徳川幕府時代、三河東部から遠州西部にかけて国家機密として火薬の保有と研究がなされました。
ですから、火薬を使った花火の歴史も古く、祇園精舎の守護神午頭天王を疫病退散の神として奉った豊川の神社では、寛文元年1661年から手筒煙火が奉納されています。
手筒煙火とは、筒型の煙火を「抱え手」が手あるいは腰でしっかりと垂直に支えて勇壮に打ち上げるものです。
作り方は、まず孟宗竹を火で焙り、熱湯に浸して、竹が割れないように施し、南京袋布を巻き付け、細縄で緊縛し、さらに不動縄(太縄)で巻き付けます。
竹の内側は、「かがみ」といわれる檜材を竹筒に合わせて丸く削るか、泥をぬって滑らかにします。
そこへ、火口から弱い火薬をそして段々と強い火薬を詰めていき、最後に「はね粉」といわれる火薬と紙と泥で封緘します。
つまり、弱い煙火で始まり段々強くなり最後はドーンと筒が貫通して終わる訳です。
弱い煙火とは、松または桐の灰分が多く、鉄粉が小粒のものをいいます。強い煙火とは、硝石・硫黄分が多く、鉄粉が大粒のものです。火薬の調合と配合は秘法ですが明治維新後、基本調合が公開されました。口伝符号によれば、
「やなぎ」とは硝石100匁(365g)、硫黄22に対して桐灰50。「もみじ」は、桐灰40。「あらし」は、桐灰35。
そして「大あらし」は桐灰30といった具合です。
鉄粉にアルミ粉を加えた「ほたる」もあるそうです。
人それぞれの工夫と思いを込めて三河の手筒は、奉納の前夜に湿気を加えながら練り混まれしっかりと固められます。
手筒の他に、大筒とよばれる御輿大の筒煙火が、豊川、千両、国府、中条、古宿、御油の6つの連区から1本づつ奉納会場に連区の人々に担がれて練り込まれクライマックスに点火され、大きな火柱と煙が起ち昇ります。
この奉納煙火は、日清、日露、そして太平洋戦争中でも中止されなかったそうです。
いまでは、煙火と同時に、仕掛け花火、乱玉花火、スターマインが打ち上げられ豪華にそして優雅に夏の夜空を彩ります。
いわゆる割物とよばれる大きな円形の花火の他、色々の形をした型物、夏のすだれのようなポカ物が花開きました。
割物は大きくなると二重、三重になり、それぞれ、芯物、八重芯と呼ばれます。四重の芯物になると三重芯と呼ばれ、直径21cm以上の七号玉が使われるそうです。
八月の第一土曜日、岡崎の五万石花火で三河の夏が始まり、
八月の第四土曜日、豊川の手筒煙火で三河の夏が終わります。
帰り道、単線の駅舎からパノラマカーの最前列に座りました。
東京オリンピックの1964年製のこの電車は2階に乗務員が運転し、最前列のパノラマの眺めが客に解放されています。
この電車は世代を超えて走ってきましたが、残念ながら近く廃止されるそうです。
暗い夜道、ここから線路の両端に点灯する信号機の光そして過ぎゆく駅ホームの電灯の流れを見ながら、一瞬輝いて煙となって拡がっていった手筒の煙火と抱え手と夏の行方を想っていました。
「いつか何処かで」